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シンプルライフの作り方

【ことば】時間・有時ー正法眼蔵

「時間は、左から右に人の意思とは無関係に均質に流れている。」

 

僕らはそう信じている。

 

でも本当にそうだろうか?

 

例えば、写真を見たとする。

 

画像が動かないため

 

写真の中の世界の時間は止まっていると感じる。

 

一方、ビデオを見たとする

 

映像が動いているため、

 

ビデオの中の世界の時間が流れていると感じる。

 

ここから分かることは、

 

人間は、時間そのものを把握せず、

物の変化によって時間(物の存在も)を認識していることだ。

 

デリダはこのことを<差延>と呼んでいる。)

 

さらに考えてみる。

 

観察者が「変化前の物体A´」と「現在の物体A」とを比較して

 

A´とAとの間に差を認識したときに時間が発生するのだが、

 

変化前の物体A´それ自体は「現在」どこにもない。

 

世界には過去、未来はなく、ただ「今」があるだけ(仏教では「刹那滅」といい、ホワイトヘッドも過去の存在を否定する)。

 

存在するのは「現在の観察者」と「現在の物体A」だけである。

 

時間とは、現在の観察者により認識される「物体A´だった経歴をもつ現在の物体A」の存在そのものなのだ。

 

瞬間瞬間に過去の物体A´(あるいは将来の物体A´´の可能性)が現在の物体Aに収納されていく。時間が今の存在Aに収束していくのだ。

 

また違う表現を考えてみる。

 

一般的には、

 

「時間が万物を支配していて、ものは時間に影響を与えない」

 

と考えられている。

 

つまり、

 

時間が止まれば、すべての存在の運動がとまることになる。

逆にすべての存在の運動が止まっても時間は冷徹に進んでいくのだ。

 

そうではなく、

 

時間と存在が相互に依存し合っていると考えたらどうだろう?

 

観察者が現在の存在Aを動的に理解することによって、時間が発生し、

観察者が現在の存在Aを動的に理解しなければ、時間は発生しない。

逆に時間がなければ、差延が生じないのだから観察者は存在Aはもちろん「自分」すら認識すらできない。

 

となる。

 

存在と時間は相互依存するし、観察者ごとに関係性が異なる。

 

時間を「存在の支配者」から「存在と対等なもの」に引きずり下ろす発想は、

 

時間を相対化・主観化することだ。

 

観察者と存在との間に複数の時間が絡まるように存在する。

また、時間があってはじめて存在が成立する。

 

光速不変の原理を保つために

 

絶対的時間を否定する相対性理論に少し似ている。

 

このことを道元正法眼蔵の中で、

 

有時は、時すでにこれ有なり、

有はみな時なり。

 

と記し、「時間は存在である。時間は独立に存在せず、存在と密接不可分」

と言い切っている。

 

ハイデガーも「時間と存在」の中で同様のことを述べているが

 

道元は数百年前に体験的・経験的知識として発見していることは驚きである。

 

般若心経では「全てのものは、相互依存関係(縁起)の中でのみ存在する」と説くが、

 

正法眼蔵では、

存在を「時化」することで、

万物の相互依存関係(縁起)を「空間面」だけでなく「時間面」にも拡張したともいえる。

 「現在のA」という存在の中には、他の存在(例えば私)との関係において、地層のように「今までのA」と「これからのA」が包蔵されている。言ってみればー瞬の存在の中に永遠の時間が保存されている。

 

見知らぬ町中のAさんも私がAさんの過去・未来を想う時、例えば子供のころはどうだったのか、夢はあるのかと思いを馳せる時、時間が加わわり、今のAさんの存在の中に過去・未来を包括した、時空を超えたAさんを見る。

 

また、Aをみている私自身も、他の存在(あるいは私を見る「私」=超越的自我)からは私がみているAと同じ・・・

*実は差延があるから超越的自我が生じる。

 

世界は、主客、時空を越えた複雑なリゾームのような構造をしている。

 

無限の縁起の連鎖は、やがて語り得ない無分別の世界ヘ通じる。

 

正法眼蔵は難しい・・・

 

とりあえず、この様に理解しておこう・・・

 

 

正法眼蔵(一)全訳注 (講談社学術文庫)

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